「出身はどちらですか?」底なしの出会い#05

神保町の床屋での贅沢。平和。ある時、それは壊された
燃え殻 2025.12.18
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最近、髭剃りを自分でせず、床屋で済ますことにしている。シャンプーとシェービングで二千五百円。それを二週間に一回。ちょっとした贅沢だ。

もともとそんなに髭が濃くないのと、取材などがなければほぼ人に会わない生活をしているので、剃らずに二週間くらい放っておける。

神保町の昔からある床屋にたまたま入って、店の雰囲気が気に入り、通い始めた。七十過ぎくらいに見える老夫婦ふたりでやっている小さな床屋で、時間がゆったり流れていて、忙しくなくていい。店にはBGMすら流れていない。たまに車の音や、鳥のさえずり、道行く人たちのおしゃべりが聞こえてくる程度。そこがまたいい。いつもお客がいないのもよかった(店にとっては死活問題だが……)。

僕は、美容室や床屋で店の人と、たわいもないおしゃべりが出来る人を心から尊敬している。尊敬しつつ、友達になれないな、とも思ってしまう。僕はシェービング中ずっと目を固く閉じ、寝たフリをして過ごす。たわいもない会話のチョイスがどーしても出来ない。

「今日、晴れてますね」と僕が言い、「そうですね」と返ってくる。「あの……」そこで話しかけてしまい、なにも出てこない、ということがあった。「最近、寒いですねえ」と話しかけられ、「寒いですね」と返す。順調だ。「夏は暑過ぎですよね」と向こうが聞いてくる。「暑いですねえ」と返す。そして大沈黙。ということもあった。人として、何度かパターンを試してはみたが、どれもこれも、居心地が悪くなるだけだった。いつしか諦め、固く目を閉じてやり過ごすようになった。

まず席につき、正面の鏡の自分と目が合う。僕の後ろに立っているおじいさんが(十回くらい通って、すべておじいさんが担当でした)、鏡越しに「今日はどうしましょう?」と訊いてくる。

少しの緊張ののち、「いつもと一緒で」と応えると、「承知しました」と返ってくる。この会話以降、僕は目を固く閉じ、寝たフリに入る。カチャカチャとなにやら準備をする音を聞きながら、決して目は開けない。程なくして、自動でイスが倒れていく。そしてシェービングの準備に入る。

今日もそうやって平和に始まった。そして平和に終わるはずだった。ただ、今日は隣の席に、声が大きい大学生くらいの若い男が座っていた。古着を着こなし、長い金髪。顔も今どきだ。この店始まって以来の今どきの若者だ(勝手に言ってますが)。

出身はどちらですか?」男は果敢にも、おばあさんにそう尋ねた。「栃木なんですよ」おばあさんはゆっくりした口調で応える。「えっ! 俺、茨城ですよ!」若者の声が狭い店内に響き渡った。「北関東出身の人に東京で会うと嬉しくなっちゃうんだよなあ〜」男はそうつづけた。

「茨城にある『イチカワ』ってラーメン屋知ってますか?」今度はおばあさんのほうから、茨城トークを仕掛けた。「ええっ! 知ってるもなにも、よく家族で食べに行ってたっすよ!」「あら〜、あそこ美味しいわよねえ」見事なラリーだ。教科書に載せたい会話術だ。

そのやり取りを聞きつつも、僕は固く目を閉じたまま、頬にカミソリをあてられる。ジョリ、ジョリジョリ、ジョリ……。おじいさんの仕事は丁寧だ。その間も、男とおばあさんは北関東あるあるで爆笑に次ぐ爆笑。狭い店の中で、半分が爆笑で、もう半分がお通夜。そのあまりの落差が気になり、ゆっくり慎重に、僕は目を開けてみる。会話がはずむ隣の席を、少しだけ覗いてみた。

向こうもちょうどシェービング真っ只中で、男とバッチリ目が合ってしまった。そして男は躊躇なく僕に言い放つ。「あの、出身はどちらですか?」と。

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